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誰かが亡くなった時に言う「この世を去った」という言葉が胸に迫るのは何故か?
先日、阿倍元総理が選挙演説中に撃たれて亡くなりました。
この私がこのニュースを知ったのは、帰宅後のお昼のニュースだったんですが、
あまりに驚いて、そのあと流れてきた続報や動画などの情報を見ては心配で、どうにか助かってほしいと願っていたのもむなしく、夕方死亡と報道され、、、ショックを受けました。。
(まったく縁もゆかりもない方ですが、おそらくテレビなどでよく拝見して勝手に親しみを感じていたんだろうと思います。物腰柔らかな方でしたし、今聞いても非常に穏やかに話すので)
このとき、「この世を去りました」という表現が使われていたんですが、、
実はこのこの言葉は私にとって、かな~り心にぐっとくる言葉なんですよね。
父と母が亡くなった時から、ようするに「死」と「この世とあの世」について考えるようになってから、この言葉を聞くと、えも言われぬ悲しみが湧いてきます。
もう二度とこの世では相まみえる事は無い、という事を表現している言葉なんだなと思います。
「この世を去る」とはどういうことか?
「この世を去る」とはどういうことか、考えたことありますか?
いや、普通はこんなこと深く考えないと思いますよ。私も、これまで普通に使ってきたし
意味は知っているし、「亡くなったってことでしょう」と思っていましたし。
実際それ以上でもそれ以下でもないただの言葉ですけど。
この世を去った人がどうなるのか、残された人がどうなるのか、そういう気持ちが蘇ってくるんでしょうね。
たったいま、ほんの少し前まで生きて普通に話していた人が、今目の前にいない。
肉体はあるけど、意識はない。動いてない。生きてない。
まるで蝋人形のように、魂が抜けたことがわかる、、、誰でもきっとそう思うでしょう。
以前、幼馴染の一人を若くして亡くした時も、死化粧された友達の顔を見て、「生きているみたいだ」と思う反面、「魂が抜けたってこういう事なんだ、もうどこにも存在していないってこういうことなのか」とひしひしと実感しました。
「生気がない」といいますが、まさに「生気」が抜けた、抜け殻であるとわかる瞬間でした。
人間の中には魂が入っていて、それが出ていくと肉体がただの入れものになる、物体になるんだなと
そんなことを考えました。
まさに、この世からいなくなってしまったってことなんだろうと。
それでも、肉体がまだあるうちは、この世と繋がっていると思うんですよね。
この世とあの世どっちにもまだいるというか。
いきなり生き返るかもしれない、そいういう期待もありました。
それが確実に終わるのは、肉体を火葬した時です。
髪の毛一本残さず、遺体が消えるんです。煙となって。
骨は残りますが、もう顔も髪も手足もない。ぬくもりも感じられない。
面影もない。
この世のどこを探しても、何も残っていないということです。
この時、本当に「この世を去った」のだと思い知りました。
亡くなった後の遺体はまだぬくもりがあります。
手足がまだ温かいんです。
でも、火葬した後はもう、それすらも感じられない。
この世を去って、肉体も消失して、意識だけになった故人がいくのは
一体どこなんでしょうね。
肉体が無くなったら?
肉体があるから、人はものを見、聞き、味わい、触れることができる。
でも、それがなくなったら見えない聞こえない触れない話せない、のか?
物理的にはそうですが、犬には人の耳には聞こえない周波数の音が聞こえるとか、周波数という観点で言えば、肉体が無くても使えるものがあるのかもしれないですよね。
人間には見えない聞こえない電波や音、そんなものが肉体がなくなればわかるようになるのかも?
肉体という制限付きの服を脱ぎ捨てて、もっと自由になれるかもしれないですね。
そうであれば、きっと私たちの知らない楽しみが待っているんじゃないだろうか。
彼らはきっと、この世を去った後はもっと自由で楽しい生活を楽しんでいる。
そうであればいいなと思います。